「イージー・ライダー」
若い頃のある時期、映画は映像が主のメディアであるのだから
映像が美しいのは当然であり、映像の美しくない映画は映画ではないと
そこまで極端に考えてしまう、いわゆる映像至上主義に陥っていたことがあった。
無論、映像は美しくないより美しい方が良い。
一方、内容空疎なくせに映像だけは立派な映画が多いことも事実である。
“陥る”と書いたのも、現在の自分はそんなスタンスにはなく、
そんな映画の見方は一種の若気の至りのようなものであったと現在は思っている。
この「イージー・ライダー」は、それまであった映画の作り方を変えてしまった
いわゆる“革命”的作品でもある。
反面、何か即興的でゆきあたりばったりな、いわゆる偶然によlってもたらされた
映画のように思っている人も多いのだが、実際には克明なシナリオが存在し、
綿密な計画によりシーンが組み立てられていた。
予算が極端に少なく、映画撮影の常識であったステージ撮影を行うことが
不可能であったために、ロケ撮影をするよりほか手立てがなかったことが
そうした誤解を生み出してしまった要因であった。
ドキュメンタリーではないのに、ドラマを越えたリアリティと斬新さ。
それは、その瞬間にその場所にある“何か”をドラマの中に
確実の映像に切り取るという感覚が必要であり、正直言って
そのために必要なことは“運”と情熱に裏づけされた“若さ”だと思うのである。
「イージー・ライダー」ほど、作り手たちのパッションを感じさせてくれる映画もなく、
こうした奇跡の名画を前にすると、映像至上主義には映画にとって最も大切な
“命”が抜け落ちていることが多いと気づいたのである。
それは、この「イージー・ライダー」の撮影監督であるラズロ・コヴァックスの言葉を
借りれば次のようになる。
「人間について何か語ることがなければ、あとは何を持ってこようと無意味である」
(T)
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by sacracafe2
| 2009-11-16 22:26
ヴィターリー・カネフスキー特集上映
11月7日から、渋谷のユーロスペースにて、
カネフスキーの特集上映が行われている。
25歳で国立映画学校に入学したカネフスキーは
在学中に無実の罪で、なんと8年もの獄中生活を送るはめになった。
釈放された後、彼は映画の製作に携わり続け、
なんと53歳で撮ったこの「動くな、死ね、蘇れ!」で、
見事カンヌ映画祭カメラ・ドール(新人賞)を受賞するのであった。
その2年後には、「ひとりで生きる」で同映画祭の審査員賞を受賞し
さらにその2年後に、「ぼくら、20世紀の子供たち」を発表すると、
やがて彼は、映画界から姿を消してしまうのである。
まるで映画の題材ともなり得るようなドラマティックな人生を
歩み続けるカネフスキーであるが、この「動くな、死ね、蘇れ!」は
実際に彼の少年時代をもとにした自伝的作品である。
この“53歳”にて“新人賞”という経歴がなんとも泣かせてくれる。
それまで人生で、彼はどれほどの苦渋をなめ続けてきたことか。
どれ程のどん底を味わってきたことだろうか。
未曾有といわれる世界同時不況と、社会に孕む、ゆがみやひずみが
弱者に対して容赦なく襲い掛かかるこの時代に、
まだまだ負けてはいけない、希望を捨ててはいけないと、
カネフスキーの成し遂げた偉業、ここに遺された作品たちは
語りかけてくるようだ。
強烈で、ピュア、さらにドキュメンタリー性をも併せ持つ、
もしかしたら、彼の最初にして最後の作となるやもしれぬこの3作、
ぜひ見逃してはならない。(T)
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by sacracafe2
| 2009-11-09 16:38
「あの日、欲望の大地で」
映画は、多くの人々の智慧と技術を集めた総合芸術である。
映画にとって脚本こそすべてである。
この相反する見解はどちらも正しい。
映画とは、そこに携わる大勢の人々の、異なる意見や考え、
そして技術をぶつけあい、鍛えあい、磨きあいながら築き上げてゆく
総合的な芸術である。
それは作品完成後の、配給、上映と及ぶ経緯にまで及ぶものである。
一方、そのように、多くの人々が関わってゆく映画製作であるが
その基となるのは脚本である。
映画製作の出発点となる企画書こそ映画の原点である、
そんな考え方も成り立つかもしれないが、どんなに優れた企画書も
そこに芸術性は存在しない。
実際に、映画を多角的の眺めることのできる映画人はおしなべて、
映画は脚本がすべてと語っているように思える。
よい脚本の悪い映画というものは存在しても、
悪い脚本の良い映画というものはありえない。
脚本なくしては映画は何も始まらず、どちらの方向に進んでゆけばよいのか
全くわからない。
そうしたことからも脚本は、設計図や航海図などに例えられるのである。
アメリカにおいては脚本家の地位が、実際の収入面などを含めて
非常に高く、それ故脚本家という業種には優れた人材が集まり、
結果質の高い脚本(映画のすべて!)が生み出されてゆくわけであるが、
我が日本の場合、著作権などの創作行為における基本的な部分からして、
あまりにも脚本と脚本家の立場が弱過ぎる。
製作費が少ない場合、「(支払える額は)これしかないんだけれど
まず書いてみてくれるかなぁ」と、まるで足元を見られるようにして
真っ先に削減の対象にされるのが脚本家なのである。
そうしたプアーな環境から、どれだけ豊かなものが生み出されるであろうか。
脚本家自らが監督もしたいと切望し書き下ろした脚本でもない限り、
選ばれし人材から生み出された努力と才能の結晶には到底歯が立たない。
この「あの日、欲望の大地で」を観て、そうした思いを一層強くした。
この作品の監督兼脚本家は「バベル」や「21グラム」の脚本を担当した
ギジェルモ・アリアガ。
デル・トロ、イニャリトゥ、キュアロンなどと共に今後世界の映画界を
引っ張ってゆくであろうメキシコ映画人のひとりである。
天才脚本家と呼ばれたアリアガはその名に恥じない見事な脚本で、
複雑に入り組んだ幾筋もの流れを巧妙に絡み合わせ、
重たく厳しい物語を、巧みに表現し魅せてゆく。
わたしが大好きだった女優ふたりの競演、そうした魅力以上に、
映画における脚本の偉大さを改めて感じさせられた作品であった。(T)
Bunkamuraル・シネマにて上映中
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by sacracafe2
| 2009-10-26 21:27
「カンゾー先生」
前回に続き、東京映画祭の思い出を記したい。
ある年、師匠の作品が女性映画祭にかかったときのこと。
上映が始まった会場ロビーは、関係者やスタッフの姿が
ちらほら見受けらる程度。
それは映画祭独特の華やかで慌しい開演前と
興奮に満ちた賑やかな上映後の、
その間にあるほっとしたひと時である。
離れた所にあるベンチに、ぽつんとひとり女性映画祭の関係者らしき
女性が腰掛けている。
よく見ると、プロデューサーの飯野久さんであった。
彼女は「黒い雨」、そして「うなぎ」で見事今村監督をカンヌ映画祭パルムドールに
結びつけた、日本を代表する名プロデューサーである。
面識などなかったが、直前に当時公開されたばかりの「カンゾー先生」を
観ていたわたしはその感想をどうしても伝えたく、声をかけさせてもらった。
「カンゾー先生」は、今村監督がパルムドール後に撮った最新作であり
マスコミ等ではなかなか大きく扱われていた。
しかし興行の方はさっぱりで、わたしが観たときなども
おそらく400前後は入るであろう劇場にわずか数名、
何とも淋しい残念な結果となった作品であった。
飯野さんに、失礼を承知の上でそのときの様子を話し、
一方で、そうした興行成績とは反して、作品そのものは
随所に今村監督の個性が光りとっても楽しめたこと、
そのような意見を率直に述べさせてもらった。
飯野さんは、「そうなんです、今村も入りには非常に失望していて、
もう映画を辞めようか、そんなことを言ってるんですよ・・・」と、
興行の結果にとても残念そうな様子であった。
この作品は、カンヌ受賞後の初作品という意味からも
世界中の注目が集まることはおそらく製作前から相当意識されたようで、
そのことは、「カンゾー先生」の次に撮られた「赤い川の下のぬるい水」
の方が、今村監督はより自由な精神で、自身のスタイルを貫き
のびのびとメガホンをとったような印象も受けることからもそう推察出来る。
おそらく、監督を含めた製作サイドの気合が
空回りしてしまったのではないかと、そんな印象を受ける部分も
多少存在するようにも思う。
さらに、今村監督が手がけるようなテーマ、そして作品は、
「カンゾー先生」公開当時もすでに、若者たちの支持を集めるような
いわゆる“今どき”のものではなかった、哀しいがそう思ったのである。
しかし、人間のドロドロとした部分を、滑稽かつファンタジックに、
そして哀しくもおかしくあぶりだすような独特の映画話法は
今村監督独自のもの。
“今どき”感などとは対極のある、それこそ軽さなどとはかけ離れた
重厚感、ねっとりとした重さ、そしてここが大切なポイントなのだが、
そうした作風ながら、映画自体はけっして下品にならず、
品格ある作品に仕上げられている。
そうした手腕は世界中見渡しても、対抗馬さえ見当たらない。
柄本明が話題になったが、この作品が出世作となった
麻生久美子がいい。
今村作品に使われる役者は、骨太な人間なのだと思う。
役者根性というか、見かけなどとは別の真の強さ、
そして逞しさをもった者が彼の作品に抜擢されるのだと思う。
「カンゾー先生」後の麻生久美子を見ていて、そう思うのである。(T)
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by sacracafe2
| 2009-10-19 21:40
「台風クラブ」
今週の土曜日から、第22回東京国際映画祭が始まる。
もう22回にもなるのか・・・と思うのは、1985年に行われた
第1回目の映画祭に特別な想い出があるからで、
その頃映画祭は毎年の開催ではなかった。
当時大学生だった私は、アルバイトとして映画製作の手伝いをしていた。
そのとき関われた作品が記念すべき第1回映画祭の国際女性映画週間で
上映されることになった。
そのとき映画に携われた経験、それは撮影から仕上げ、そして上映までの
長い道のりであり、過酷にして中毒になるような魅力を有した体験、
それがなければ、おそらく自分は大学卒業後はサラリーマンとなり
まっとうな会社勤めをおくっていたのではないだろうか。
それはともかく、あのとき、あの頃の映画祭は、現在と比較して
申し訳ないがはっきりいわせてもらいたいのだが、テンションが
もっともっと高かったように思うのである。
映画祭に携わる側も、観客である市民の側も、映画祭に対してもっと
熱い思いと期待を抱いていた、そう思えてならないのである。
例えば、特別招待作品(当時は“映画祭の映画祭”というの企画名であった)
の監督たちの顔ぶれをみても、それは記念すべき第1回という特別な要素が
あったにせよ、デヴィット・リーン、黒澤明、フランチェスコ・ロージ、
ピーター・ウェアー、ノーマン・ジェイソン、そして「パリ・テキサス」を出品した
ヴェンダースと、錚々たる名が並んでいた。
またヤングシネマ85という若い映画監督たち対象のコンクール企画があり、
その審査委員の顔ぶれがこれもすごかった。
大プロデューサーのデビッド・パットナムを委員長に、ミロス・フォアマン、
ベルナルド・ベルトリッチ、そして今村昌平と、当時の世界の映画界を
代表する監督たちが審査委員を務めていたのだ。
出品者たちの顔ぶれもなかなかのもので、ナンニ・モレッティ、ニール・ジョーダン、
マイケル・ラドフォード、そしてコーエン兄弟たちの名前さえも見るこができた。
そのハイレベルの第1回コンクールで見事グランプリに輝いたのが、
今は亡き相米慎二監督の「台風クラブ」であった。
相米監督の映画は比較的地味な印象を受けるが、実は厳しい演技指導による
妥協なき相米ワールドであり、この「台風クラブ」や「お引越し」、さらに「あゝ春」
「風化」などなど、これら遺された作品の数々を観て感じることは
邦画界にとって本当に、惜しい人を亡くしたという思いである。(T)
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by sacracafe2
| 2009-10-12 22:54