「ユリシーズの瞳」
映画評論家という職業、本当に厳しい仕事だと思う。
映画に対する観点、視点、切り口、それらに斬新、独自の
ものを有していなければならず、おまけに文章や語り口だって
読み手を魅せるものがなければ一流の評論家にはなれない。
例えば、ある作品に対して語ってゆくということは、
自分の知識や教養を公にさらけ出すことにさえなるのである。
監督やプロデューサーは作品に対して何年もかかりきりで
調査し取り組んでゆくからその対象に詳しくなる。
一方、評論家は一度作品に接しただけできちんと正確に
論評しなければならない。
これはきついことだと思う。
そこには映画の製作サイドの人間たちのように、
“自分たちの頭と手によって生み出した何か”
がもとより存在していないわけで、あくまで他人の創作したものに対し
自分なりの意見を述べてゆくわけだから、
きちんと責任をもって仕事に取り組むもうという
真面目さがある評論家ほど、重圧のかかる仕事となる。
だから、試写会が終わると真面目な評論家は
よく監督やプロデューサーに質問にゆくと、そういわれている。
例えば、クストリッツァの作品を語るには、
相当の地理的、歴史的な教養が不可欠であり、
よってパンフレットの解説などはその地域の専門家である
大学教授が執筆したりすることが多いのだが、
そうした中でも、定評ある一流の評論家の方々は、
本当によく勉強し、研究し、書いていると聞く。
一本の“未知の世界”の作品に対して、評論家として意見を述べるには、
製作した人たちに負けないようなプロ意識が必要なのである。
そうした熱意と自信なくして、どうして世の中に対して、
この作品はこういうことについて語っているものであると、
堂々と語れたりするものであろうか。
だから評論家は、本当に大変な仕事だと思うのである。
そしてアンゲロプロスなどは、本当に評論家泣かせの
監督なのではないだろうか。(T)