「クララ・シューマン 愛の協奏曲」「アマデウス」を観たことの反省にたって
「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」も「敬愛なるベートーヴェン」も
観ないことにした。
あれほど強烈な映像イメージに接してしまうと、以降その音楽を聴くときに、
どうしてもその映像が頭に浮かんできてしまう、そうした理由からである。
念のため断っておくが、以下に述べる音楽と映画に関する考え方は
あくまで自分の個人的な見解であり一般論ではないかもしれない。
例えば、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトについて考えたり、
語ったりするときに、もしあの「アマデウス」を観た人であるならば、
無意識のうちにも心のどこかに、あのアマデウスを演じた役者の、
顔や動作、そして話し方などのイメージが、自然と呼び起こされて
しまっているのではないだろうか。
それは自分の中で、音楽を聴くことによって拡がってゆくイメージを
自ら限定してしまうことに繋がり、同時に与えられた映像イメージを
ただ単純になぞっているにすぎなくなってしまう。
「敬愛なるベートーヴェン」という作品をもし観てしまったならば、
以降、交響曲第9番を聴くときには必ずベートーヴェンを演じた役者の顔や
仕草が、自然と頭に浮かんできてしまうにちがいない。
そうなってしまっては、“音楽”を聴くというかけがえのない行為、
そこでしか得ることのできない愉楽のときを、
自ら放棄することになってしまうと思うのである。
しかし、そうした誓いを破らせようとする、実に魅力的な作品がある。
Bunkamuraル・シネマにて7月25日より公開される
「クララ・シューマン 愛の協奏曲」である。
シューマンの妻クララを描いた作品はこれまでも何作か存在したが
やはり自分は上記の理由で未見であった。
では何故、今回の作品は観よう、そしてぜひ観たいと思ったのか。
理由はふたつある。
まず第一に、監督であるヘルマ・サンダース・ブラームスへの信頼感、
そして期待感である。
1985年に開催された第1回東京国際映画祭に出品された「エミリーの未来」、
さらには彼女の存在を一躍世に知らしめた「ドイツ・青ざめた母」など、
人間を冷静な眼差しで見つめ、真の姿を浮かび上がらせてくる語り口は、
日本人の自分から見ればその厳しさに、ある種恐ろしささえ感じるほどである。
そうした意味で彼女は、“魅せてくれる”映画を撮れる監督なのである。
そして第2の理由は、そのブラームス監督自身がこの作品に登場する
あのヨハネス・ブラームスの、なんと末裔であるということ。
ならば無責任で、スキャンダラスな描き方など当然するはずもなく、
この映画はそのような意味でも、安易さなどは存在しないといった
一種の保証がついた作品だといえよう。
さらにもうひとつ、自分は非常にシューマンの音楽が好きなのである。(T)