「ゴッドファザー PARTⅢ」フレームの切り取り方は本当に難しい。
なぜ、このサイズ(画角)を選択するのか?
なぜ、キャメラはこの高さにあるのか?
なぜ、キャメラはこの方向に向けるのか?
映画を漫然と観ていると映像は当然のように
次から次へと変化し、流れてゆく。
しかし、その基本単位であるワンカット・ワンカットは、
レンズの種類やサイズ、キャメラの高さなど、
無数の組み合わせから選択されたたったひとつの“画”であり、
映画とは、そうしたものの連続、つまり全体像なのである。
「15センチずれたら、もう同じショットじゃなくなるんだ」
これは撮影監督史上最高の人物・ゴードン・ウィリスの言葉である。
あるシーンにはただひとつのキャメラ位置しか存在しないという
彼の哲学を表した言葉である。
かつて、自分が初めてキャメラマンに指示を出す立場になったとき、
この言葉を思い出したものだった。
上記のように“なぜ・・・”“なぜ・・・”と考え始めたらきりが無い。
もちろん様々な制約から、キャメラポジションははじめから
ある程度限定されるのではあるが、本当にたったひとつしか存在しない
ものなのであろうか・・・これがベストポジションなのであろうか・・・
そうした迷いが生じたものだった。
ベテランキャメラマンの様子を見ていると、しばらく撮影現場を見回し、
ちよっとの間思案すると、助手に“ここ!”と実に明確な指示を出し
ポジションは決定される。
“経験”のひとことで片付けてしまえないこともないのだが、
この撮影現場(の映像)を支配しているのは俺だ、といった
迷い無き選択が、周囲の信頼を勝ち得ているのである。
この作品で、アル・パチーノが神父と話をするシーン、
一見何気なく撮られたカットであるが、よく観ると実に味がある。
ゴードン・ウィリスは圧倒的な迫力でこのポジションを選択したに違いない。
そしてこの映像を彼のセンスの良さ、それに審美眼といった
ありきたりの表現のみで片付けてしまっては進歩がない。
あえて、このシーンの撮影時に
選択されなかった映像
(つまり別のポジションであったり画角であったり高さであったり)を
想像し、ならばなぜこの映像が選択されたのか、そんな裏から覗くような
読み解きかたも、ときにはなされてもよいと思う。
芸術は理屈ではない。
しかし、繰り返し観たり聴いたり触れたり、
そうした優れた感性を、我が体内に取り込むような訓練は
有効であると信じている。(T)