「ボローニャの夕暮れ」芸術の超大国であるイタリアは、映画においても
ときおり、凄みのある作品を生み出してくる。
人生における苦しみや悲しみ、そして喜び。
人の残忍で無慈悲な心と無償の愛。
掴みどころのない人の心を人間味溢れるドラマの中に
巧みに散らし、織り込んでゆく“映画心”はこの国の伝統。
ロッセリーニ、フェリーニ、タヴィアーニ兄弟、モレッティ、
デ・シーカ、トルナトーレ、アントニオーニ、ベルトルッチ・・・
繊細ではフランスには及ばないかもしれないが、
こと人の心の不可思議さを描かせれば、
この大国の右に出る国はないのではないだろうか。
主人公演じるシルヴィオ・オルランドのように、
決して美男ではないが、比類なき名優たちも
この“美”の大国は多数輩出しているのである。(T)
渋谷ユーロスペース、銀座シネパトスにて上映中
# by sacracafe2 | 2010-06-29 21:13
「ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実」
「ウィンター・ソルジャー ベトナム帰還兵の告白」べトナム戦争が勃発してから50年になる本年、
同戦争を題材にした傑作ドキュメンタリーが公開される。
「ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実」と
「ウィンター・ソルジャー ベトナム帰還兵の告白」の2作品である。
両作品はそれぞれ米アカデミー賞最優秀ドキュメンタリー映画賞、そして
ベルリン国際映画祭フォーラム部門でインターフィルム賞を受賞している。
朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争と、はっきりと“戦争”と呼ばれる
武力行使のみならず、これまでに世界各国で引き起こされる“紛争”に
様々なかたちで関与、介入してきた米国。
2作品を通じて観れば、そこには歴史的観点からの当時のアメリカ、
さらには現在にいたる歴史的流れとしてのアメリカ、そうした
過去と現在を結びつける大きな視点を得ることができる。
歴史に、こうした戦争を刻んでしまうアメリカの負と、
同時にこのような映画を世に問うアメリカの正、
その2面を強く感ぜずにはいられない。(T)
東京都写真美術館ホールにて上映中
# by sacracafe2 | 2010-06-21 22:51
「ソウルパワー」話題作、超大作と見なされ興行収入でもトップ10入り
するような作品を観てみるとどれこれも映画の内容としては
似たり寄ったりで、起承転結、構成、語り口には大差がなく、
そこには映像表現の違いくらいしか新たな発見は感じられない。
しかも最近は、その映像表現の部分がいま話題の3Dも含めて
映画の“売り”になっており(もしくはそれしか“売り”がない?)
目を凝らして作品の本質を見つめると、そこにはかつての作品の
焼き直しばかりが透けて見えてくるのである。
そうした傾向への反動だろうか、今ドキュメンタリー映画が
とても元気があり活況であり、実際上映本数も確実に増え続けている。
実際に映画館に行って新作のチラシをチェックしてみると
その本数の多さに驚くばかりである。
上映中止が問題になっている「ザ・コーヴ」をはじめ、
10年前なら信じられないくらい多種多様なドキュメンタリー映画
をわたしたちは観ることができるのだ。
マンネリ化した内容空疎な作品よりも、嘘ではない真実の重さ、
そして緊張感といったリアリティを、人々は欲しているのだろうか。
ある1時代、歴史の一こまを見つめなおし、改めて“今”を考えてみる。
この不確実な世の中に、今とはどういう時代なのか、過去はどのような
時代であったのか、その位置や流れを見つめ直す試みが起きている。
この「ソウルパワー」もそんな流れの中に位置する1本。
“本物”を求め、“真実”を追求しようという流れは時代の必然である。(T)
# by sacracafe2 | 2010-06-08 09:12
「アメリカの友人」デニス・ホッパーが亡くなった。
この作品が世に登場しなかったら、現在の映画の
概念は変わっていたのではないかとさえいえる
「イージー・ライダー」、その監督・脚本・主演をつとめた
ホッパーだが、この度彼の作品リストを眺めてみて
自分の好きな作品が多いことに改めて驚いた。
ジェームス・ディーンと共演した「理由なき反抗」「ジャイアンツ」、
「OK牧場の決闘」に「暴力脱獄」、ヴェンダースの「アメリカの友人」、
そしてあの「地獄の黙示録」にデビッド・リンチの「ブルーベルベット」など
名作、傑作、問題作が目白押し。
強烈な個性が様々なトラブルを引き起こし、
問題児扱いもされたけれども、
彼は型や枠などには収まりきらない、特異な“才能”を有した
稀有な芸術家であった。(T)
# by sacracafe2 | 2010-05-31 20:54
「ブンミおじさん」ついにタイ映画がカンヌでパルムドールを獲得した。
20数年間、タイ映画を観続けてきた人間として
ようやくタイの社会に、成熟した映画文化が根付いた
証左であるこの度の結果を素直に喜びたいと思う。
バンコクを中心に、北部、東北部にまで及んだ今回の
デモは、むしろ遅過ぎた民主化への行動だったとしか
いいようがない。
つまりタイの社会は、真の民主化を勝ち得ないまま
文明だけが発展途上国を脱し中進国へキャッチ・アップ
してしまっていたからである。
本来ならあのような民主化への抗議運動は、
10年以上前に起こっていても何ら不思議ではなかった。
そして歪なステップを歩まざるをえなかったタイ社会に
内包される特殊性は、今回の抗議運動でも解消されることは
なかったように思う。
しかし、カンヌでパルムドールを獲るほど文化的熟成をなして
きた国家が、果たして今後も現存する矛盾をはらんだ
ままの社会体制でうまくゆくのだろうかと感じざるをえない。
そうした意味でも、今回の「ブンミおじさん」の受賞は
今後のタイ社会の健全な発展に結びつく可能性を感じさせる
文化による民主化運動ともいえるのではないだろうか。(T)
# by sacracafe2 | 2010-05-25 18:44
「別れの曲」連休を利用して東京国際フォーラムにて開催されている
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 「熱狂の日」音楽祭
2010に出かけてきた。
今年はショパン生誕200年ということもあって
ショパンの宇宙というテーマ。
数年前このイベントに出かけた際、大変失望したことがある。
それは音楽祭として門戸を広く一般に開放し過ぎたために、
それこそふらっと公園に遊びに出かけるような気分で公演を
聴きに来る人が大勢いたこと。
会場は演奏が始まっても落ち着きがなく騒々しく、
音楽を聴くという雰囲気には程遠くもう2度と行かないと
思ったものだった。
だが今回は別。
プログラムはレバノン出身で現役のピアニストではピカイチの
アブデル・ラーマン・エル=バシャとショパンの母国ポーランドの
シンフォニア・ヴァルソヴィアとの協演。
これは見逃す、聴き逃すわけにはいかない。
そして驚いたのは観客のマナーの良さ。
モーツァルトやベートーヴェンのときと比して目を瞠るほどの進歩。
演奏中、立ち歩いたり話をしたりしている人はいなかった。
もしかすると進歩したのではなく、ショパンを聴きにきた人たちは
もっと特別な思いがあって会場に足を運んでいたのかもしれない。
古今東西、楽聖と呼ばれる音楽家たちの中で、神童の称号をも
併せ持ち、天寿を全うするまで天才で居続けた音楽家は
自分の知るところ、次の3人だけではないかと思う。
モーツァルト、そしてショパンとマイケル・ジャクソンである。
恵比寿の写真美術館にてショパン生誕200年記念、
映画「別れの曲」が上映されている。
作中で流れる甘美でせつない名曲を堪能しつつも、
優れた芸術は人間の苦悩の中からこそ生じてくるもので
あることを知るのである。(T)
東京都写真美術館にて上映中
# by sacracafe2 | 2010-05-03 09:38
アート系映画の需要及び供給が頭打ち状況になって久しいが
劇場も配給会社も皆、並々ならぬ苦労と努力をされていると思う。
身近な例で似たような状況にあると思うのが野菜などの生産者。
特に有機野菜の生産者の方々である。
質の高い野菜、安全な野菜など、少しでも良いものを
食卓に届けようと生産に従事されているわけだが、
そのための手間隙は通常の生産とは比較にならない。
けれどもそのような苦労や努力が収入となって
報われるわけではなく、そこには良心や志といった
モチベーションが存在しているのだ。
決して大作ではないけれども、文化、芸術として秀でた映画を
世に紹介したい、人々に送り届けたい、そうした思いは
経済的見返りなどとは別の次元のものであろう。
口先だけでなく、心から“映画が3度の飯より好きだ”といいきれる
人々が存在するのである。
そこで、わたしたちに出来ることは何だろうか。
それは“買い支え”以外にないだろう。
私たちがお百姓さんたちの熱い思いをくんで野菜を買い支える。
私たちが劇場に足を運び映画を観る。
そこには私たちの“よいものを欲する”という純粋な気持ちさえ
あればよいのだから。
考えてみれば、アート系映画やミニシアターの存在しない世の中
なんて、味気なくてつまらないではないか。
第一、劇場で公開しない作品が増えてゆけば、
コンテンツの2次利用、3次利用にだって影響が及び、
映画産業自体が先細りしてゆく結果が目に見えている。(T)
# by sacracafe2 | 2010-04-27 13:33
「パイナップル・ツァーズ」昨年末、「映画館(ミニシアター)のつくり方」という本が出版された。
シネコンに押され、しかもアート系映画のタマが揃い難いという
逆風の吹く状況下で、一見無謀にも思えるタイトルの本だなと
当初は思ったが、読んでみればその思いは一変した。
本書は、映画に対しての愛と志の詰まった、
近年稀にみる希望溢れる熱い作品である。
全国各地でミニシアターを経営している館主及びスタッフたちが
悪戦苦闘しながら映画文化を守り、それを地域にそれを根付かせようと
尽力し、尊敬すべきは皆がプライドをもって取り組んでいる
その姿勢が見出せることである。
館主のひとり、真喜屋力氏は映画監督でもあり映像作家でもある。
かつて東京にBOX東中野という劇場があった。
現在、ポレポレ東中野と呼ばれている劇場である。
真喜屋氏はそのBOX東中野の運営スタッフのひとりであった。
スタッフひとりひとりにとんがった個性が感じられ、たしか6名いた
主要スタッフは、まるで「七人の侍」の侍たちのようだと思っていた。
その後BOX東中野は解散し、主要スタッフは現在様々な仕事につき
中には門間氏のように著述もあり、現在明治学院大学で映像を教えている
人物もいる。
中でも個人的に親しくした真喜屋氏が、現在郷土・沖縄でミニシアターの
館主として映画文化を育み、支えているかと思うと感慨深い思いがある。
彼を含めた3人の若き映像作家の撮った沖縄映画の記念碑的作品、
「パイナップル・ツァーズ」をここに紹介したい。(T)
# by sacracafe2 | 2010-04-19 18:21
「ビルマVJ 消された革命」タイの首都バンコクで起きた衝突で日本人カメラマンの
村本さんが亡くなった。
村本さんはスチールではなくビデオカメラを回していたようだ。
これは私の推測に過ぎないのだが、村本さんの心のどこかに
“ここはタイである”というある種の見誤り、すきが生じてしまった
のではないだろうか。
発展途上国から中進国へと経済成長を遂げ、武力や暴力による
流血革命がこれまで少なかったタイ。
王政という絶対的な安全装置が機能してきたタイ。
そんなタイなのだから命の危険までは起こりえないだろう、
そうした“油断”が心のどこかにわずかながら生じてしまったのかも
しれないと、そう推測したのである。
危険な地域での撮影に義務付けられていた防弾チョッキを
つけていなかったことからも、そのように思ったのである。
いずれにしても私たちが茶の間のテレビやパソコンの画面で
易々と世界のあちこちで起きている“危険”な状況を見、知る
ことができるのは、村本さんのような方々の“見えない”活躍が
存在しているのだ。
村本さんたちのような命を賭して映像を撮り続けるプロ中のプロたち、
その姿を知るのに最適な映画が公開される。
5月11日より渋谷のシアター・イメージフォーラムにて公開される
「ビルマVJ 消された革命」である。
この作品は、己の命をかえりみずに軍事独裁政権下のビルマで
その真実の姿を世界に伝えようとするVJ(ビデオ ジャーナリスト)
たちの貴重な活動の記録である。
そしてこの作中で、日本人VJ長井健司さんが尊い命を落していた
事実を再認識するである。
わたしたちは今回のような悲惨な事件に直面しなければ、
村本さんや長井さんたちのような、自分の命を賭しても
世の中を良くしてゆきたい、変えてゆきたいという高貴な
志をもった人たちの存在を意識することもない、
そんな現実をもここに知るのである。(T)
「ビルマVJ 消された革命」5月11日より
渋谷 シアター・イメージフォーラムにて上映
# by sacracafe2 | 2010-04-12 21:38
「コロンブス 永遠の海」自分が年を重ねてゆくにつれ、高齢になっても若さを失わずに
頑張っている人物が、とても神々しく思えるようになってきた。
例えば、昨年逝去したマイケル・ジャクソン。
50という年齢を全く感じさせないあの身のこなしを見るにつけ
あれほどの体の動きを可能とするために、日頃からどれだけ
鍛錬を積んでいたことだろうかと想像するにつけ、
たとえそのことだけに限っても、十二分に尊敬に値する、
そんな人物ではないだろうか。
この度岩波ホールにて上映される「コロンブス 永遠の海」を監督した
マノエル・ド・オリヴェイラはこの作品を撮ったのが99歳のときである。
さらに100歳を迎えた2008年も、そして102歳になる本年も、
新作を撮る予定であるという。
未見なので作品については語れないが、瑞々しい感性が必要不可欠な
映画製作において、この年齢になっても製作を続けてゆけるのは、
観客のみならずスタッフなど、多くの人々の支持と期待があってこそ。
若くして鮮烈なデビューをかざった多くの監督たちが、
まるで燃え尽きてしまったかのように、あたかも感性が磨耗してしまった
かのように、わずか数本の作品にて才能を使い果たしてしまうのに比して、
このオリヴェイラ監督は、年輪を刻み続けてゆく大樹の逞しさを感じる。
人間国宝をも超えた、人間世界遺産、それがオリヴェイラ監督である。(T)
神保町 岩波ホールにて
4月17日より 1990年作品「ノン、あるいは支配の虚しい栄光」
5月 1日より 2008年作品「コロンブス 永遠の海」 上映
# by sacracafe2 | 2010-04-05 22:20
「誰かが私にキスをした」たしか高校生の頃だったと思うが、リチャード・ドレイファス
(知らない方も多いと思うが、「グッバイガール」でアカデミー主演男優賞
を受賞し、「ジョーズ」で最後に海面に浮かんできた人)主演の
「コンペティション」という映画があった。
内容はあまり憶えていないのだが、今でも強く印象に残っているのは
ドレイファス他、出演者たちがピアノを弾くシーンである。
その演奏する演技に、プロの役者とはここまで自らを鍛え上げ、
役に徹し、真実に迫ろうと努力する人たちなのか、そんなことを
教えられた気がしたのであった。
ロバート・デ・ニーロに代表される、いわゆる“その役になりきってしまう”
タイプの役者について語るとき、必ず問題にされるのがギャラのこと。
例えば「レイジング・ブル」のように、一本の作品の中でボクサーの役に
成りきるまでに体を鍛え上げたり、同時に超肥満体になるまで太ったり、
そこまで役に徹することが可能なのは、努力に充分に見合っただけの
ギャラと時間が与えられるからこそ可能、そんな反論である。
たしかに、当時の邦画界の状況からはデ・ニーロのようなプロ意識は
生まれてくるはずもなく、その環境の違いがいかにもうらやましく
思えたものであった。
しかし、デ・ニーロの登場あたりから確実にその好影響は
日本の役者たちにも波及した。
ギャラなどとは関係なく、オレ(わたし)は自分のプライドと信念と役者魂で
役に徹してみせる、成りきってみせる、そうした熱い心意気をもった
役者たちが次第に登場してきたのであった。
例えば、松田優作などはそんな役者のひとりであったと思う。
そして、その流れは良い方向で日本の役者たちに受け継がれ、
現在に至っていると思う。
昔なら吹き替えなど当たり前であった困難な演技に対しても
プロ意識の強い役者たちは己を鍛えぬき、真に迫る演技するようになった。
この映画は掘北真希がアイドルを超え、真の大物女優になるかもしれない、
そんな可能性を感じさせてくれる作品だと思う。(T)
# by sacracafe2 | 2010-03-29 20:33
再び「ゴダールの映画史」本日(23日)より27日(土)まで、アテネ・フランセ文化センターにて
あの「ゴダールの映画史」全8章が一挙上映されている。
DVDにて販売されてはいるが値がはるためなかなか手が出ない。
いつかはこの名作を、と思っていた人も多いはず。
この絶対美としか表現のしようがないゴダールのセンスを
観たままに感じて欲しい。
そして映画とは、かくもシンプルであり、
同時に多層的で複雑な要素を併せ待った
奥深い芸術であるかを知ることができるであろう。
この機会、絶対に見逃してはならない。(T)
Sacra Cafeの本棚に「ゴダールの映画史」テクストあります。
# by sacracafe2 | 2010-03-23 20:59
「抵抗 死刑囚の手記より」岩波ホール、ユーロ・スペース、イメージ・フォーラムといった
かける映画に定評のある小屋(映画館)が、現在揃って
名画を上映している。
何年も、何十年も前に製作された作品であっても、そこには
普遍性、つまり人類の文化遺産としての価値が確実に存在する。
家庭のテレビが大型化し、ソフトのレンタル・販売が普及しようとも
映画は劇場で観たい、観るべきだと思う人たちは多い。
おそらく、映画に対して真摯に接したいと考えているのと同時に、
劇場という“特別な”空間に身を置き、そこで映画と素直に向き合いたいと
そのように考えているのではないだろうか。
劇場は非日常の空間であり、そこには映画とだけ向き合える環境がある。
だから、その場でしか汲み取れない、感じられないるものがある。
魂を揺さぶられるような経験は、劇場だからこそ。
果たして、現在も無数の誕生してくる“映画”の中から、
どれだけの作品が“名画”として生き残ってゆくのであろうか。
普遍的価値を有してゆくのであろうか。
上記の劇場で上映されている名画を観れみれば、そこには、共通する
“何か”が必ず見えてくる。(T)
# by sacracafe2 | 2010-03-15 22:31
「トゥー・ウィークス・ノーティス」先週、ヴィルモス・ジグモンドについて書いていたときに
盟友のラズロ・コヴァックスがすでに他界していたことを知った。
年齢的にいって亡くなっていてもおかしくはないのだが
また彼の新作はあるのだろうかなどと期待含みに思っていたり
したこともあって、ああ、名手がまたひとり逝ってしまったと
感慨深く思ったのであった。
とにかく、あの世代のキャメラマンたちは皆、個性があった。
すべての映画人のバイブルである名著「マスターズ・オブ・ライト」に
とりあげられている撮影監督たちは真の芸術家ばかりで
映像さえ見れば撮影監督の名が言い当てられるような、
独自の映画的世界観を有した者ばかりであった。
類稀なる才能を有する者が、画一的でない教育と刺激ある環境を
得たとき、常識を超えた能力を世に示すことが可能となるのであろう。
少なくとも現代の世、しかも先進国とよばれている国で育つ者の中からは
残念ながら突き抜けた人物が生まれにくくなっていることは間違いない。
それはモノも情報もあまりにも容易に手にできる現代人の悲劇である。
ラズロ・コヴァックスの手がけた「イージーライダー」などを観れば、
そうしたことがわかると思う。
これで益々もって、同年代であるヴィルモス・ジグモンドの新作
「ウディ・アレンの夢と犯罪」に対する期待が高まると同時に、
遅まきながら、コヴァックスの冥福を祈り、彼の後期の代表作の中の一本
「トゥー・ウィークス・ノーティス」をここに紹介したい。
こうした単純そうで普通っぽいロマンティック・コメディの映像を撮らせても、
その一流の技は冴え抜いて、格の違いを見せつけるのである。(T)
# by sacracafe2 | 2010-03-08 21:36
「ウディ・アレンの夢と犯罪」ウディ・アレンはハリウッドのビッグ・スターたちがこぞって出演を
希望するほど、その演出力に定評がある監督である。
役者からしてみれば、彼の手がける作品はけっして金のかかった大作
ではないのだけれど、やはり出演することによって彼の演出に肌で接し、
自らの演技力が高められるのではないかという直接的な期待と、
さらには“あのウディ・アレンに認められた”という箔付けに対する期待もあると思う。
一方、不当に軽視されているのだが本当に凄いのは
彼の映像に対するこだわりである。
彼は監督としてデビューして以来、撮影監督には徹底的にこだわり続けてきた。
「アニーホール」から「カイロの紫のバラ」までは「ゴッド・ファザー」を手がけた巨匠
ゴードン・ウィリス、そしてアントニオーニとのコンビで有名なカルロ・デ・パルマ、
続いてベルイマンやタルコフスキーの作品を手がけたスヴェン・ニクヴィストと、
錚々たる名キャメラマンを指名し続けてきたのである。
派手さや豪華さを競い、いわゆるこけおどしの映像とは一線を隔した、
それは底光りするような、玄人受けする画をウディ・アレンは
追い求め続けてきたのであった。
近年、撮影監督のビッグネームとはあまりコンビを組んでおらず、
それは若手キャメラマンを登用することによって、老境に入った自身の感覚に
若い新鮮な刺激を得ようとしているのだろうかなどと思ったりしていたのだが
そんなウディ・アレンが、今月末から公開される新作で
何とあのヴィルモス・ジグモンドとコンビを組んでいるというではないか。
これは絶対に見逃すわけにはいかない!
ジグモンドは、今やイタリアのストラーロと並び現役撮影監督の最高峰。
彼は1956年のハンガリー革命時に、同じ映画学校で学んでいたラズロ・
コヴァックスと共にソ連の戦車から身をかわしながらその動乱の様子を
キャメラに収めアメリカに渡る。
自身の腕以外に何らつても縁故もないふたりは、以降悲惨かつ困窮を極めた
日々を過ごすことになる。
しかし彼らは、並々ならぬ気力に根性、そして想像を絶する努力を積み重ね、
ふたりしてチャンスを掴み取ったのであった。
コヴァックスは「イージーライダー」で米映画界に撮影革命を起こし、
以降もスコセッシやルイ・マルなどの重鎮たちに起用され
押しも押されぬビッグネームとなった。
そしてジグモンドも、「未知との遭遇」「ディア・ハンター」「天国の門」といった
超大作を手がける一方、ブライアン・デ・パルマやアルトマンといったこだわりの
監督たちから起用され、同じく米映画界のトップに立ったのである。
彼らが歩んだ道のり、これほど劇的なサクセス・ストーリーはこの現代に
そうそうお目にかかれるものではない。
この「ウディ・アレンの夢と犯罪」、ギリシャ神話やドストエフスキーなどの
ロシア文学をも思わせる、究極の悲劇に挑戦したという。
ジグモントと組んだ撮影ともども大いに期待したい作品である。(T)
3月20日より恵比寿ガーデンシネマにてロードショー
# by sacracafe2 | 2010-03-01 19:07
「ダークナイト」遅ればせながらようやくブルーレイディスクレコーダーを購入した。
仕事の関係で普段はテレビを見る時間が全くとれないため
自分はこれまでテレビの買い替えに全く無関心、
そのため我が家のテレビはずっと骨董的な箱型ブラウン管のもの、
しかし、いよいよ耐用年数を超えてしまったようで買い替えを決心した。
ならばついでにブルーレイも、ということになったのであった。
家電量販店では担当の販売員がじつに丁寧に説明してくれ、彼はなんと
テレビの重量が気になっていたわたしにテレビを抱えさせてまでくれたのであった。
SONY、Panasonic、SHARP、TOSHIBA・・・各社・各グレードにおける
画質を比較するために店が使用していた映像が「ダークナイト」。
何度も何度も同じ場面を繰り返し見たのだったが、結局全編通じて見れなかった
欲求不満が残ったので、テレビとブルーレイを購入したのち、そのときのポイントで
「ダークナイト」のブルーレイディスクをもらってきた。
映画の作品論はともかく、ブルーレイによる高画質映像に正直驚いた。
色彩の鮮やかさ、輪郭のシャープさ。
その驚異的な高画質に、今から20年ほど前、まだハイビジョンが
夢のシステムであった頃に国際放送機器展のSONYのブースで
放送局用ハイビジョン・モニターの立体感ある画面を見たときの
信じがたいような感覚を思いだした。
とくに導入部分、ビルの一室にカメラがすーつと寄っていくところは
まさに息を呑む思い、あとで「ダークナイト」の特典映像を見て知ったのだが、
その箇所はなんとアイマックス、つまり通常の35ミリの倍、
70ミリで撮影しているとのこと、なるほど言われてみればあそこの映像には
機材のパフォーマンスを超えた鮮明さがあった。
しかしそうした高画質をきちんと再現できるところがブルーレイ。
この超高画質を知ってしまったからにはもうこれまでのDVDの映像では
満足できないかもしれない、そうまで思ってしまう技術革新であった。
ブルーレイ、恐るべし。(T)
# by sacracafe2 | 2010-02-22 21:53
シネカノンのこと少し前から噂では聞いていたのだが、
ついにシネカノンが民事再生法の適用を申請した。
この倒産は単に、一映画製作及び配給会社が倒産した、
そういった単純なものではない。
邦画界は、その希望の星を失ってしまうかもしれない。
シネカノン・李さんはそんな存在でさえあったのだから。
世の映像を製作する環境を考えてみると、デジタル技術の
急激な進歩により、小型のデジタルカメラなどを使用することによって
言ってしまえば誰でも“映像”は作れてしまう時代になった。
一方、興収ランキングの上位に顔を並べるのは大抵の場合、
テレビ局の絡んだいわゆる大作であることが多い。
こうした状況は、粗製乱造とまでは言いたくないが、
次から次へと映画まがいの映像は作られ続けるその一方で、
CMや番組を使用して派手に宣伝をうつ大作映画のみが
大ヒットする(させる)という極めて歪な状況にある。
そうした日本映画界において、シネカノン・李さんの作る映画、
配給する作品は中身と規模のバランスのとれた、
それでいて内容的には作り手の良心や志をも感じさせる
今の時代には貴重な映画が多かった。
10年位前になろうか、映画のセミナーなどに参加する若い映画人、
もしくは映画業界で働くことを希望する学生さんには、
将来は李さんのようなプロデューサーを目指したい、
そんな夢や希望を語る者たちも少なくなかった。
シネカノン=李鳳宇であり、その存在はインディペンデントに限らず、
上述したように、日本映画界の希望の星であった。
だから、「フラガール」が日本アカデミー賞を受賞したとき、
それは長く続いた日本映画界の常識、慣習を打破した、
まさに快挙と言われたのであった。
映画の製作に比するほどのギャンブルなどは存在しないので、
自分は世間でいわれるところのギャンブル、いわゆる競馬、競輪、
マージャン、パチンコなどは一切しない、そういい切っていた李さん。
確かに不確実かつ“賭け”という側面のある“映画”という商売で
長年新境地を切り開いてきた李さんであったが、
ついにそのツキから見放されてしまったということなのであろうか。
かつて、あるパーティーで李さんにあったときのこと。
その頃ドキュメンタリーの製作会社にいた私は、独立して
劇映画の製作および演出をしてゆきたいという希望を伝えた。
すると李さんはいつものおだやかでかつ余裕のある態度で
「自分も劇映画を積極的に作っているけれど、ドキュメンタリーも
面白いですよね」、そう述べてドキュメンタリー映画の意義、存在価値、
そしてドキュメンタリーでなければ撮れないものがあるその独自性について
話をしたのであった。
あれだけの人材、そうそう簡単に現れるとは思えない。
もし、ツキに見放されたのが今回の負けだとしたら、
人生はすべて正負の法則、再び巡ってくるツキをも味方に
再度カムバックされる李さんの姿をぜひ見たいと切望するのである。(T)
# by sacracafe2 | 2010-02-17 12:49
ブレッソン、レネ、メルヴィル、タルコフスキー2月下旬より渋谷のユーロスペースにてロベール・ブレッソンの
「罪の天使たち」が上映される。
また現在、渋谷シアター・イメージフォーラムにてタルコフスキー映画祭が
開催中であり、同館では2月下旬よりアラン・レネの「去年マリエンバートで」
「ヒロシマモナムール 邦題(24時間の情事)」も上映を控えている。
そして神保町・岩波ホールでも2月下旬からメルヴィルの「海の沈黙」、
続いてブレッソンの「抵抗」が上映される。
こうした世界映画史に残る名画の再上映という流れは、
アート系映画の人気低迷により配給会社が新作の配給権購入を
見送っていることに起因する現象なのだろうが、考えてみれば
不朽の名作を立て続けにスクリーンで観られるチャンス、
なぜこれらの名画が不朽の名画たりうるのかその理由を知る
絶好の機会といえるだろう。
それぞれの作品はもちろんテーマも違うし監督たちのスタンスも異なる。
しかし彼らには、大いなる共通点がある。
それは、確固たる自身の哲学と時代を超えた普遍の眼差しを有し、
厳しく自己の内面をみつめ、あくなき“人間”の探求を行い、
真理に至る道を模索し続けた、そんな作家であるということ。
その結晶がこれらの作品なのである。
そしてここには、現代の映画から失われつつある真の芸術性が
確実に存在している。
あの頃の大人は本当の大人であり、人間としてスケールが大きかった。
彼らの作品に接するといつも、そんなことを思うのである。(T)
# by sacracafe2 | 2010-02-08 20:50
ジェームズ・キャメロン監督「アバター」が興収歴代1位を樹立するのは時間の問題だろう、
そう読んでいたが、まさかこんなにも易々と達成するとは思わなかった。
自身の手で「タイタニック」が保有していた記録を抜き去ったのだから
現代映画界、その盟主であることに異論を挟む者はいないだろう。
このジェームズ・キャメロン監督に関して、非常に興味深い話題が
東京新聞に掲載されていたのでここに要約し紹介したいと思う。
1月4日に93歳で亡くなった長崎市の山口彊さん。
山口さんは、広島と長崎の2ヵ所において2度の被爆をするという
人類最悪の愚挙、その悲惨な歴史の証人であった。
山口さんはこれまで国連本部などで被爆体験を語ってきたが
そんな山口さんをあるアメリカの作家が取材し、「広島発最終列車」という
ノンフィクションにまとめあげた。
そして、その草稿を読んだキャメロン監督が昨年末、
亡くなる直前の山口さんを見舞に訪れたのであった。
キャメロン監督は山口さんの手をとって次のように語ったという。
「あなたの稀有な体験を後世に伝えるために来ました。
キューバ危機を体験し、原爆が使われるかもしれない恐怖が
脳裏に焼きついている」
そんなキャメロン監督に山口さんは
「私の役目は終わった、あなたに託したい」、そう語ったという。
映画の話題作りや宣伝戦略にも長け、なおかつ世間のニーズに
敏感な面をも併せ持った、いわゆる商売上手な監督に見られるキャメロン監督。
ところがどっこい、彼は地球の平和、人類の未来に関して
性根の座った志を抱いている人物なのである。
そして現在、キャメロン監督は、原爆をテーマにした映画の構想を練っているという。
やはり、一流となる人間は、人間が一流、そう思わざるをえない。(T)
# by sacracafe2 | 2010-02-01 17:28
「ジャンピング」1989年に亡くなった手塚治虫さんは1928年生まれというから
本当に早死にであった。
ちなみにSacra Cafe.のある旧東京市営店舗向住宅も1928年に
建築されたものであり、同年生まれのピアニストなどにはまだ現役
で活躍中の人たちが何人もいる。
だから手塚さんは、人生を猛然と駆け抜け、燃え尽きてしまった、
わたしはそのような印象を受けるのである。
手塚さんは大の映画好きで、忙しいスケジュールの合間をぬって
年間365本もの映画を観ていたともいわれており、
中でも大好きであったディズニーの「バンビ」は何と130回以上も
観たそうであるし、また「スターウォーズ」や「未知との遭遇」を観るために
わざわざアメリカにまで旅をしたともいう。
惜しくも実現はされなかったが、キューブリックと黒澤の2大巨匠から
美術のオファーがあった(キューブリックはあの「2001年宇宙の旅」)ほど
映画界からも高い評価を受けていた。
そして実際、子どもの頃や若い頃に夢中になって読んだ手塚さんの作品、
例えば「ブラック・ジャック」などを今改めて読んでみると、
当時は全くわかりようもなかった作画のテクニック、
その映画的なことに気づかされるのである。
例えば、カットの割り方やインサート(マンガ用語で何というのか
よく知らないが)の使い方など本当に映画的で、その間の刻み方などは
まさに映画の呼吸の仕方そのものである。
しんしんと雪の降るインサートカットによって、
その前のカットから次のカットへと静寂のときの流れていたことを
表現するセンスなど本当に素晴らしい。
現代の映画は映像をよくいじり、同時にやたらと画を動かすのであるが
手塚さんのマンガを読んでいると、かつて映画は観手に対して
想像力を空想力を大いに刺激し、その場の臨場感や空気感をしみじみと
感じさせてくれる、そのようなメディアであったことに改めて気づかされるのである。
同時に、手塚さんの作品の根底に一貫して流れる圧倒的なヒューマニズム。
つまり、手塚作品はマクロで眺めてもミクロでとらえても、そこに現代映画に
失われつつある、堅固な物語性を見出すことができるのである。
そんな手塚さんが、敢えて商業性を無視するかのように挑戦し、
高評価を勝ち得た実験映画「ジャンピング」。
手塚さんの別の一面を垣間見るようでとても興味深い。(T)
# by sacracafe2 | 2010-01-25 17:43
「ユリシーズの瞳」映画評論家という職業、本当に厳しい仕事だと思う。
映画に対する観点、視点、切り口、それらに斬新、独自の
ものを有していなければならず、おまけに文章や語り口だって
読み手を魅せるものがなければ一流の評論家にはなれない。
例えば、ある作品に対して語ってゆくということは、
自分の知識や教養を公にさらけ出すことにさえなるのである。
監督やプロデューサーは作品に対して何年もかかりきりで
調査し取り組んでゆくからその対象に詳しくなる。
一方、評論家は一度作品に接しただけできちんと正確に
論評しなければならない。
これはきついことだと思う。
そこには映画の製作サイドの人間たちのように、
“自分たちの頭と手によって生み出した何か”
がもとより存在していないわけで、あくまで他人の創作したものに対し
自分なりの意見を述べてゆくわけだから、
きちんと責任をもって仕事に取り組むもうという
真面目さがある評論家ほど、重圧のかかる仕事となる。
だから、試写会が終わると真面目な評論家は
よく監督やプロデューサーに質問にゆくと、そういわれている。
例えば、クストリッツァの作品を語るには、
相当の地理的、歴史的な教養が不可欠であり、
よってパンフレットの解説などはその地域の専門家である
大学教授が執筆したりすることが多いのだが、
そうした中でも、定評ある一流の評論家の方々は、
本当によく勉強し、研究し、書いていると聞く。
一本の“未知の世界”の作品に対して、評論家として意見を述べるには、
製作した人たちに負けないようなプロ意識が必要なのである。
そうした熱意と自信なくして、どうして世の中に対して、
この作品はこういうことについて語っているものであると、
堂々と語れたりするものであろうか。
だから評論家は、本当に大変な仕事だと思うのである。
そしてアンゲロプロスなどは、本当に評論家泣かせの
監督なのではないだろうか。(T)
# by sacracafe2 | 2010-01-20 07:51
「戦後フランス映画ポスターの世界」とてもませたガキだったので、初めて買ってもらった
レコードは映画のサントラ盤だった。
エンニオ・モリコーネによる「夕陽のガンマン」と
「荒野の用心棒」が組みになったものだ。
その頃から映画の副次的な魅力に目覚め、
雑誌、サントラ盤、ブロマイド、そしてポスターと、
映画に関するものなら何でも興味と関心を抱き、
夢をみていたような、そんな子ども時代だった。
その頃はまだDVDはおろかビデオすら存在しておらず
好きな映画をいつでも観たいときに観られるといった
現代ではごくごく当たり前の行為が夢のまた夢の世界、
映画への熱い思いは上に挙げた映画から派生した商品で
満足させていたということになるのだろう。
けれども振り返ってみれば、例えば一枚のブロマイドを
眺めていて膨らんでゆく映画スターに対する憧れの気持ち、
一枚のレコードから連想されてゆく躍動的なイメージ、
それらは想像の中で美化される部分が多いということが
あったにせよ、その思いは何故か、現代のように何でも簡単に
手に入る時代よりも、ずっと強く深いものがあったのではないかと
わたしは思うのである。
簡単に手に届かないものであるからこそそこに夢があったのだと、
いってしまえばそういうことなのだろうが、
現代という時代は、人間から貴重な想像力というものを
知らぬ間に奪ってゆく、そんな時代であることは間違いがない。
東京国立近代美術館フィルムセンターにて
「戦後フランス映画ポスターの世界」展が開催されている。
今回展示される貴重なポスターとその作品には、
映画のロマンとよき時代の雰囲気が確実に存在している。
ゴダールの「女は女である」やジャック・タチの「のんき大将
脱線の巻」のポスターなど、文化大国にして映画の母国である
フランス、その底力といえばよいのか伝統といえばよいのか、
芸術性の高さは現代のポスターデザインなど遠く及ばない
洗練が見受けられる。
同時にここには、人間の想像力がまだ健全であった時代の温もりも
感じられるのである。(T)
1/7~3/28 東京国立近代フィルムセンターにて
# by sacracafe2 | 2010-01-11 20:44
「アバター」子どもがぜひということで元日に一緒に「アバター」を観た。
で、どうせ観るなら3Dでという選択、料金は200円しか違わない。
結果は大正解、鑑賞後の感覚をなんと表現したらよいだろうか、
妻は“3日間ほどあの惑星に暮らしていたような”となり
私なら、テーマパーク以上の臨場感、であろうか。
かつて新宿高島屋にあった劇場で3D作品は何作も経験済み、
“仕組み”自体には別段驚きは感じなかったが、そこはやはり
超一級の表現者ジェームズ・キャメロンの語り口の上手さもあって
開始から数十分間は3Dの効果を確認するためあえてサングラスを
かけたりはずしたりしながら観ていたのだが、やがて物語に引きずり込まれ
そんな行為などすっかり忘れ、朝から続いていた頭痛さえもが
知らぬ間に消え去っていた。
ジェームズ・キャメロンは現代の映画界をリードしてゆかねばならない存在、
それ故、業界の未来に対する危機感は強いのだろう、
過剰な投資が必要な反面ネタの行き詰まりが著しい近年の映画、
その新たな表現手段を模索し続けているに違いない。
その彼が“自らのイマジネーションに技術がようやく追いついた”と
豪語しているが、それは全くは本心であろう、そしてその表現のために、
3Dこそが相応しいと判断したのではないだろうか。
もうこの水準の映画になってしまうと自分などが知っている
いわゆるキャメラがあって被写体があるといった原初形態の映画とは
別次元の映像作品、特に後半における戦闘シーンのような映像になってくると
いったいどのように撮影し映像化されているのか正直見当もつかない。
ジェームス・キャメロンの凄いところはここである。
彼は映画作家として抜群のイマジネーションをみせながら、
同時に映画監督としてテクニカルな部分においても超一流の
知識と技術を有している。
敢えて“たったの”2000円と言いたい、究極のヴァーチャル・トリップが
(なんと161分も!)こんな値段で体験ができるもの、他にあるだろうか?
観るならぜひ3Dで!(T)
# by sacracafe2 | 2010-01-02 11:54
今年一年を振り返れば、
「THIS IS IT」という一生の宝となるような
超のつく名画に出合えた幸福な
一年であったと思う。
これまでの人生で出会った数々の名画、
その一本一本を思い返しても、
あれだけの作品はなかなか生まれてこないものである。
来年はどんな名画に出合えるのか、
今からとても楽しみである。
勘としては、これからの時代、
ドキュメンタリーや実験映画に
斬新な傑作が生まれてきそうな気がする。
映画や文化の力で、世界がよくなりますように。(T)
# by sacracafe2 | 2009-12-29 12:22
「倫敦から来た男」鬼才と称される数多の監督たちの中にあって
この人こそまさにその呼び名に相応しい。
彼の作品はその芸術性が高く評価され、
あのニューヨーク近代美術館でも特集上映が行われたという。
7時間以上の大作「サタンタンゴ」も凄いが
何といっても145分の尺にしてわずか37カットの
「ヴェルクマイスター・ハーモニー」が圧巻。
光りと影のコントラストが絶妙のモノクローム映像と相まって、
彼の作品はわたしたちに、静かに語りかけてくる。
それはまるで、異様なまでのハイ・テンポかつ“カットを割る”という以上に
カット数重ねる現代主流の映画に対する挑戦でもあるかのよう。
そして彼の作品の特徴は驚異のワンショット。
今回の作品も、凝りに凝ったキャメラワークで魅せてくれる。
ここにワンショットの神様テオ・アンゲロプロスの言葉を紹介したい。
「ワンシーン・ワンショットの映画では、見る人間の知性と感性とに
より多くの自由を残そうとしています。一つの画面にあって、観客は、
そのしかるべき要素を自分で発見し、自分でそれを組織だててゆく。
(中略)それは、つまり映画を見に来た人の知性を信頼し、
受動性から解放させようとすることにほかなりません」
わたしの映画を観て、あなたたちは何を感じるか?
タル・ベーラの作品はわたしたちの感性に、そう問いかけてくるのだ。(T)
渋谷 イメージ・フォーラムにて上映中
# by sacracafe2 | 2009-12-21 18:09
「カティンの森」またもやミニシアター及びアート系映画の危機に関する新聞記事。
老舗岩波ホールが旧作の上映に踏切るというのだ。
どういうことかというと、芸術性の高い作品、
特にヨーロッパのアート系映画が不入りで、
配給会社が配給権の購入を見送ることとなり、
結果岩波ホールのような小屋(劇場)がプログラムを組むことに
支障をきたすこととなり、打開策として世界の名画(旧作)に
再度目を向け、上映の機会をもとうという試みである。
なぜ、アート系映画は支持されなくなってしまったのであろうか?
この手の記事や情報を知るにつけいつも考え込んでしまうのだが、
わたしには理解不能な現象、それでも敢えて想像してみると
①難解なもの、つまり明解でないものに対しての拒否反応
②ゲームやコンピューターのような俊敏な反応に慣れた現代人には
アート系映画の持つ時間の流れがまどろっこしく遅く感じられる・・・
そんなところだろうか。
記事の最後に、岩波ホールの原田さんの言葉が記されている。
「映像の多様性が失われている。映画を供給する側の姿勢が
問われており、岩波ホールの考えはこうだ、というものを示したい」
10年ほどまえ、世を席巻した“グローバリゼーション”という病。
その後遺症に苦しめられる世界中の固有の文化と価値観。
繊細で優しさに溢れた幸福の絵本作家でもある原田健秀さんの
意欲と決意、心から応援したいと思う。(T)
# by sacracafe2 | 2009-12-14 18:21
「THIS IS IT」 その312月19日から「THIS IS IT」が再公開されることとなった。
この世紀の名画を見逃していた方はこの機会に
ぜひぜひ劇場に足を運び、鑑賞していただきたい。
この作品、DVDやブルーレイでいかに大画面テレビで見ようとも、
おそらく受ける感動は劇場における半分、いや10分の一、
それはあまりにももったいない。
かつて私が子供のころはちょくちょく起きた現象であったが、
この作品は本当に久しぶりに観客の間に感動の共有体験をが起こり、
上映終了後、劇場は拍手に包まれるという稀有な映画なのである。
11月23日、ロンドン在住の世界的ピアニスト・内田光子さんの
リサイタルに行ってきた。
今年度、女王陛下から男性の“サー”に該当する“デイム”の勲章を
授与された内田さんのいってみれば凱旋公演のような今回のリサイタル、
チケットは早々と完売、当日会場となったサントリー・ホールの周辺は
タクシーの運転手はが「今日は何かあるんでしょうか?」と尋ねるほどの
渋滞となり、会場に集った人々の表情は興奮と期待感に溢れていた。
さらに美智子妃殿下までが鑑賞にお見えになり、
内田さんは気迫のこもった演奏で会場の期待に応えてくれた。
終演後はスタンディングオベーションが起こり会場は大いに盛り上がった。
それなのに、私は素晴らしい演奏だとは思ったのだがどこか心からではなく
何と言ったらよいのか、上辺だけのような感動に終わってしまったのであった。
演目は私の大好きなシューマンの幻想曲、ベートーヴェンのピアノソナタ28番、
そしてシューベルトの即興曲まで含まれていたのだからそれが気に入らなかった
というわけでは絶対にない。
他の観客の様子からも演奏は間違いなく熱の入った素晴らしいものであったと思う。
それなのにである。
そして私は、その無感動に近い原因が間違いなく、その日の前日に観た
「THIS IS IT」にあったと、そういう確信をもっている。
あの名画を観た後では、正直申し上げて内田さんのリサイタルといえども
感動が追いつかなかったからだと、そう感じているのである。
断っておくが、私はクラシック音楽の大ファンでありいつもはクラシック、
とくにピアノ音楽しか聴かない人間である。
おまけにマイケル・ジャクソンはファンでも何でもなく、
むしろ偏見さえもっていたような人間である。
それなのに、生で聴いた世界的ピアニスト内田さんのリサイタルよりも
スクリーンに映し出されたマイケルたちの映像に、何倍も、何十倍も深い、
感動をおぼえたのであった。
「THIS IS IT」は、歌や踊りを理屈抜きに楽しめる映画である。
同時に、この作品は観る人の、それまでの人生や生き方によって
見かた、とらえかた、感動の仕方が大いに異なるような、奥深い作品でもある。
この作品は映画のコピーにもあるようにまさに“奇跡”の名画なのである。
マイケルのみならず、ダンサーズやコーラス、ステージの裏方を勤めた人たち、
そしてこの映画を製作・監督し、私たちに多くにものをもたらしてくれた人たちに
心から感謝の気持ちを伝えたいと思う。
マイケルとは、ただ一点を除き、プロの中のプロであり、
極めるとはどういうことか、そのことを私たちに教えてくれた人であった。
そして、その唯一点とは、若くしてこの世を去っていってしまったことである。(T)
# by sacracafe2 | 2009-12-07 18:03
「モーツァルト四大オペラ」
オペラ映画フェスティバル2009オペラは聴覚も視覚も刺激する総合芸術である。
そして、モーツァルトの最高傑作はオペラ作品だといわれている。
オペラはモーツァルトの作品によって、それまでの貴族たちの
娯楽であったものから、音楽作品へと生まれ変わった。
モーツァルトのオペラはその音楽的完成度の高さもさることながら、
一流の脚本家によって書かれた台本と台詞があり、
それらは鋭く時代をとらえ観察された普遍性ある人間描写となっている。
よって一流の映画監督は、一流の指揮者やオーケストラとともに
それらのオペラ作品を、ぜひとも映像化したいと切望する。
その結果誕生したのが今回、恵比寿の写真美術館にて上映される4作品。
巨匠ベルイマンによる「魔笛」はあまりにも有名。
タルコフスキーやウディ・アレンとも組んだ名手スヴェン・ニィクヴィストによる
映像も見事である。
そしてモーツァルトのオペラを十八番にしていたカール・ベームの指揮による、
ウィーン・フィル演奏の「フィガロの結婚」もまた素晴らしい。
きら星のごとき名歌手たちによる演技が見ものである。
クリスマスを目前に控えたこの時期に、とっても相応しい
華やかで優美な企画である。(T)
12月5日から27日まで、
恵比寿ガーデンプレイス内東京都写真美術館ホールにて上映
# by sacracafe2 | 2009-11-30 21:14
「THIS IS IT」 その2この作品を観て感じたこと、改めて思い知らされたこと、
それは、優れた被写体に勝る素材はない、ということである。
マイケルの“個人的”な記録に過ぎなかったこれらの映像から
私たちは、実に多くの事柄を感じとることができる。
それは、真に優れたものはシンプルな装いの中に、
実に多様なものを有していることと通ずる。
人々を幸せにするということ、
人間が本当に真剣に生きるということ、
そして人生とは何なのだろうか、
人は何のために生きるのであろうか。
この作品を観ると、そうした様々なことに
思いを馳せずにはいられない。
ドキュメンタリー映画は、テーマを前面に打ち出す作品が多いが、
この映画のように、そこに強いメッセージや言葉などが存在しなくとも、
マイケルの姿をストレートに伝えるだけで、
歌や踊りの素晴らしさを超えた熱い感情が
観客の心の中には湧き出でてくるのである。
言葉には言い表せないような、
何か強い感動を得たはずである。
映画の中でディレクターが、リハーサルが行われている会場を
つまりマイケルのいる空間を、まるで教会のようだと語っているが、
確かに、あまりに凄すぎて、そこに神聖なものを感じるのである。(T)
# by sacracafe2 | 2009-11-23 19:00
「THIS IS IT」この人は人間を超えている、
こういう人物をいわゆる超人と呼ぶのではないか、
これまでの人生でそう感じた人物がふたりいた。
ひとりは元NBAのスター・プレイヤー、マイケル・ジョーダン。
二人目はあのウサイン・ボルト。
そしてこの作品を観て、3人目がマイケル・ジャクソンとなった。
この映画は本当に傑作。
そして、これはもう本当に、奇跡のような映画。
このようなドキュメンタリーを前にすると、
ドラマはいかにも安っぽく、うそ臭い。
この作品を見損なうと絶対に損、確信をもってそう断言する。
そして観るならぜひ、劇場の大画面と音響で。
わたしたちが知っているマイケルは、マスコミを通じたある一面であり
それはとてもいびつな姿であったと思う。
この作品は変な演出が為されていないために、
彼が真にどのような人間であったのか、そのことが至る所に滲み出ている。
人は何のために生きるか、そのことをマイケルは教えてくれる。
必見、必聴!ぜひお見逃しなく(T)
# by sacracafe2 | 2009-11-17 21:50